📚こころを旅する数学 メモ
第1章 3つの秘密
- 3つの間違い
- 数学の問題を解くには論理的に考えなければならない。
- 生まれつき数字に強い人もいれば、生まれつき幾何学的直観に長けた人もいる。ところが、残念ながらたいていの人は数学がまったく、それこそ1ミリも理解できず、それは絶対に変えようがない。
- 偉大な数学者は生まれつき、脳のつくりが私たちとは違う。
- 数学者の魔法の力は論理ではなく直感。
- ただそれを伝えるのは難しい。数学者は、自分のなかでしか数学を演奏できない。
- 数学的対象に対する直観は、育てることができる。
- 数学者たちがやっている、"見る""感じる""真に理解する"と同時に、「自明だ」と捉えるテクニックを明らかにしていくのが、本書のテーマ。
- 数学者の3つの秘策
- 数学の実践は身体活動。頭を働かせなければならない。数学のやり方を学ぶことは、身体の使い方を学ぶこと。
- 数学が大得意になる方法はある。自分の直観のプログラムを書き換えることによって。
- 数学に対する生まれながらの能力はおそらく、すべての人に公平に分け与えられているわけではない。が、一般に考えられてるより、その差はかなり小さい。
第2章 スプーンの持ち手はどっち?
- はじめは使えなかったスプーンは柄のほうをもたなかったのがやがてちゃんと持てるようになり、身体化する。言語など、日常に行う他のあらゆる行動も、身体化して簡単になる。
- 数学も同じなはず。高校の数学の問題を解くことは、日常に行う行動と同じくらい簡単であるべきで、現状そうでないなら数学教育に問題がある。
- 数学には「学ぶこと」はなく、「やること」があるのみ。身体活動である。
- というのを説明されなかったから、生まれつき苦手、などという誤解が生まれてる。
第3章 思考の力
- 直観は間違うが、正しいことも多い。不完全だが、最も強力な知的資源でもある。
第4章 本当の魔法
- 10進法を理解し、すぐに大きな数字を扱えることは、簡単でも自明でもない。そんな数を表現することすらできない人もいるなかで、それができるのだから。
- 簡単やからできてるのではなく、できるから簡単。
- 魔法は存在しない。魔法を覚えたとたん、魔法ではなくなる。自分に理解できる数学は簡単すぎると思ったら、簡単だから理解できるのではなく、理解できるから簡単なのだ。
第5章 頭のなかは目に見えない
- 数学的概念を理解することは、それまで見えなかったものの見方を学ぶこと。それが自明だと思えるようになり、意識の状態が一段上がること。
- ブロックを正しい穴に入れるおもちゃは、スプーンで食べるほど難しくないが、学習するのはスプーンで食べるのを学習するよりずっと難しい。
- 真似るだけではできるようにならないから。頭の中で実行している、目に見えないことを、自分で考案して、うまくいくかわからんままに実行して見ないといけないから。
- 高跳びの背面跳びは、まったく新しい動作。
- それまでのやり方ではうまくいかないと悟り、手がかりないままに、自分の体に耳を傾け、編み出された。
- 数学者の研究手法も同じ。相手の内面は見れないし、それを正確に言葉で伝えることは困難。であるがゆえに、自分自身で編み出すことが必要。
第6章 トースターの取扱説明書
- 数学の本は、トースターの取扱説明書のようなもの。
- 何ができるか?を説明するものではない。
- 必要なとこを読めばいい。
- 人間が数学の文献に立ち向かうときに重要なのは、使われている言葉と描写されている状況に直観的な意味を与えること。
- 「行間の思考」を捉えること。
- 「心」で理解すること。
- 何かを「心」で理解するとは、自分で直観的に納得し、それが正しい理由とそのなかで覚えておくべき"教訓"を言葉で表せるようになること。
第7章 幼い子供のように
- 間違えるに決まっている。間違ったことを思い浮かべればいいし、それを自覚しつつも間違ってかまわない。間違えることを求めればいい。
- 間違いを発見することは、探究の対象に対する知識が改まる瞬間。
- 自由に、疑問を持ち投げかけることになんの抵抗もない子どものような無邪気さが不可欠。
- 新たな数学的概念の学習は、直観の再構成を経て行われるので、試行錯誤が欠かせない。
- 「書く」ことの役割は、内にある誤りを見つける方法。
- 論理は思考の役には立たないが、どこで思考が間違ってるかを見つけるのには役立つ。
- 書く作業を通じて、不明瞭でたいていは誤っている直観が少しずつ明確で正しいものになる。
- 第8章 イメージを明確にすること
- 数学的定義は、新たな脳内イメージを組み立てるための手引書。
- 数学の文献を解読するのは、目の見えない人が星が見えないまま星の形式的定義を解読しようとするようなもの。
- 数学的理解の要は、形式的定義にもとづいて自分の内に新たな脳内イメージをつくりだす手段を見つけること。
- 直観的なものにし、内容を「感じる」ため。
第9章 何かがおかしい
- 問題は、頭の中で行うことを誰も教えてくれないこと。
- 数学は直観である、というだけでは不十分で、それは誰でも利用できる。さらに、直感を育てる方法も伝えていく必要がある。
- 直観は、言語や論理との対決によって発達し、強固になる。
第10章 直観的に見る方法
- 舌打ちの反響で、目が見えなくても周りのものを見えてるかのように認識できた人がいる。物理法則を計算するのではなく、脳がそれに適応した。脳の可塑性のなせる技。
- 数学者は学校で習うような解法で数学の問題を解かない。物理の方程式を書き出して歩き方を習得するのが不可能なのと同じように、解放に従っても新しい数学を生み出すことはできない。
- 意識下で解くのではなく、脳の可塑性により適応していく。
- 人間の脳の可塑性は驚異的で、超自然的。
- 脳の可塑性による進歩はゆっくりで、緩慢なので進歩をリアルタイムで感じ取ることはできない。突然、自覚する。
- まずとりかかり、自分にはできないのではないかと思いながらも試行錯誤を続けると、自分にもできるとわかるときがくる。
- 幼い子供の学習能力を取り戻すということは、素質や才能をめぐるくだらない話を忘れるということ。自分にはできないという思いに惑わされず、脳の可塑性にまかせ、できるかできないかわからないことに時間を費やせるようになること。
第11章 ボールとバットで1ドル10セント
「ボール1個とバット1本の合計は1ドル10セントである。バットの値段はボールの値段よりも1ドル高い。ボールはいくら?」
- 10セントと答えがち。システム1は間違う、という典型的な例。
- システム1は直観的。で、システム2が登場することもなく、間違ったりする。
もう一つの選択肢として、システム3がある。
- 要は"考える""熟考する"こと。だが、直観に従うな、という主張では決してない。
- 直観と論理の一貫した探求のこと。自分の直観と論理のあいだの矛盾に耳を傾けること。
たくさん計算間違いをしても、数学ができないと結論づけるのではなく、状況をもっと単純に把握できる方法を探した。
- このアプローチで、間違えるたびにさまざまな脳内イメージを構築したのが、世界の理解を深めるのに役立っている。
- choiyakiこれも、脳の可塑性のなせる技、であろう。
- 直観は書き換えられる
- 直観と推論力のずれは、ものごとの新しい見方を"自分の内に作り出す"チャンス
- 一度では成し遂げられないと理解しておくこと。脳内イメージを豊かにすることは、神経細胞の接続を再編成すること。このプロセスは有機的で、固有のリズムがある。
- 力ずくもいけない。直観的に解釈できないか?を常に試すこと。自分が理解していることで遊んでみること。
- 時間がかかる。時間をかけると、直観力は高まる。
本質的に直観に反することなんてない。直観に反するのは、それが直観的にわかる方法が見つかるまでの一時的な状態。
理解するとは、自分が直観的に把握できるようにすることである。他者に説明するとは、相手がそれを直観的に把握できる簡単な方法を提示することである。
システム1は直観力。システム2は厳密な推論力。
- システム2は、人間は苦手。
- システム3は、一種の瞑想。が、瞑想であってもシステム3の活動とは限らない。
- 矛盾がないようにするという制約を受けた瞑想。
- システム2の結果を考慮してシステム1を修正すること。
- 脳の可塑性によるものなので、時間が非常にかかる。
数学教育の誤解は、数学の表現や推論がすべてシステム2の世界に属するように見せてしまったこと。
- 数学を得意になるには、システム3を活用する。システム1の直観をシステム2で書き換え続けること。
第12章 1から100まで足すといくつ?
- 裏ワザなどない。裏ワザがある、と考えるのは、直観に価値はなく、自分で理解できない方法を機械的に適用しなければならないという間違った思い込みを植え付けてしまう。
- 裏ワザに見える、どこからともなく現れたと感じてしまうのは、イメージが欠けている印。
- ものごとの見方が不完全で、もっと、単純で明快な方法があるという意味。
- システム3の中核をなすのは、無限大の想像力を思う存分発揮すること。
- 間違ってもいいから。その都度修正すればいいから。
- 身体を総動員して意識的に対象を見ようとすること。
第13章 屈辱・みじめさ・劣等感
数学的対象の観察と操作を自分に許す人と許さない人。両者の差は時が経つほど桁違いに開いていく。
数学は知識ではなく実践である。
他の人に説明することで、本当に理解できる。
- 自分自身の数学を理解するいちばんの方法は、まるっきりの初心者に説明しなければならない場面を想定すること。
理解の2つの段階。
- 第一段階は、ステップごとに論証を理解し、それが正しいことを"受け入れる"。
- 第二段階は、その論証がどこから出てくるのか、なぜそれが自然なのかが"見える"。
- choiyakiこの2つの段階は、納得感しかない。まさに、という感じ。
数学を理解するには、羞恥心や逃走本能や隠蔽反応を抑え込んで、わからないことをわからないとそのまま開けっぴろげに伝えること。
第14章 デカルトに学ぶ知の技法
デカルトは、『方法序説』によりシステム3について語っている。
難しさには知能ではなく感情、よく見せたい、自分は理解していると示したい(たとえ実際は理解していなくとも)という社会的欲求にある。この欲求は、捨てなければならない。
「一連の問いのなかに頭で完全には理解できない問いが現れたら、そこで立ち止まらなくてはならない。
頭の中で行う目に見えない動作を説明するのは難しい。そこでシステム3が発動してても、それを他者に自分が感じている・行っているように伝えることは難しい。
100%確かでなければ、科学的観点からは価値がないとし、常に間違っているかもしれないシナリオを想像すること。
- 確信を疑うこと。後ろ向きに頭から身を投げること。
第15章 怖くなんかない
- すべてではないものの、難解に思える、想像もつかないような事柄であっても、基礎を習得することは可能。最大の難関は、恐怖を克服すること。
第16章 危険なスポーツ
- 夢の記述は数学の記述に最も近い活動。
- 理解と理解が長い年月を経て結びつくことがある。その時、劇的に理解が進むので、数学が脳の支配権を握り、疲れていても休ませてもらえず絶えず進展し続けたりする。
- 数学を突き詰めることは危険なスポーツ。
第17章 純粋な理性は人を惑わす
- 数学のせいで変わった人になるのではなく、数学は元々変わっている人を受け入れることができる学問。
- 純粋な理性は人を惑わせる可能性が高い。
第18章 部屋の中のゾウ
- 合理性には問題がある。合理性を言葉で構築しようとすると、その脆弱性のため間違った結論に至ることがままある。
- 数学の言語は、形式主義的。言葉に対して、数学の言語は強固と言える。
- ゾウを言葉で定義することはできないが、我々はゾウを直観で認識することができる。言葉では捉えられないが、認識できている。
- 「球」という言葉は、人間の言語ではいろんなものを球と呼びうる(リンゴやら地球やら)。あいまいさゆえに、広く利用できる。数学の言語における「球」は定義に基づいており、それを満たさなければ球ではない。
- 人間の言語はあいまいだが、意味を仮置き、仮固定して論理的帰結に至ることはできる。
- あくまでも仮固定。それが崩れることはありうるし、有効やと認めるためには経験が必要になる。それを有効たらしめる具体的な実例が。
- 数学の最も実用的な点は、脳に作用し、世界の見方を変えること。
第19章 概念をつくり出すマシン
- 紙に描かれた線を見るだけで、ゾウと認識できる脳。ゾウを定義できないのに、ゾウを簡単に認識できる。
- シナプスのつながりのある一帯、ゾウを見たときに発火する一帯を持って、ゾウと認識する。
- 絶えずシナプスどうしは結びつきを変化させている。
第20章 大いなる数学のめざめ
- 数学は、世界に対する直観的理解を広げてくれる。
- 適切な想像の練習を積めば。
- 指さして示せないものを明確かつ正確に語るための言語。
- 数学の目的は、世界を見て考えるための、“人間“にとって最良の方法を開発すること。
- 外部の真理にではなく、私たち自身の変化こそが数学がもたらす進歩。
- choiyakiこれは、ほんまにそうやな、と思う。すべてにおいて、数学を間なんだからという感覚がある。文章を書くにしても、理解するにしても、ほかの学問を理解するにしても、数学がベースにある感覚がある。ずっと感じてたことや。
- 数学はフィクション。球は現実には存在しない。が、それが存在するかのようにふるまう必要がある。よって数学の学習は純粋な想像活動であると言える。
- フィクションを通じて現実の物を見ることにより、私たちの世界の理解を深める新たな概念となる。
- フィクションありき。ただ、そのフィクションがすごい力を持ってる。